美行兄と私と庭の物語
2011 年 6 月 25 日公開
私の住む地域は多摩丘陵の外れに位置し、連続した丘陵と狭い谷戸田の田園風景が私の原風景です。この谷戸田の閉鎖的ではあるが密度の濃い空間は変化に富み、風景の複雑さと豊かさを肌で感じながら私も美行兄も育ちました。植木屋であった父は玉川学園に多くのお客様を持ち、幼いころの私たち兄弟も父に連れられ遊びに行ったものです。
丘陵の地形には手を加えず家々が立てられ、数百年か千数百年か、人と自然が調和して作り上げてきた。風景と自然を損なうことなく自然に溶け込むようにして徐々に家が建てられていった地域。道路、電柱、雑木林、その奥に密やかなたたずまいを見せる家々。これが兄と私の原風景。
里山と言う言葉はなかったが、自然豊かな美しい風景。特に細い野道とその両側に繁茂する樹木の姿が強く印象に残っています。道を包み込むように広がる里山の景色は、歩みを進める毎に様々に景色が変化して、飽きるどころか不思議に満ち、魅力的で子供には十分すぎるくらい神秘な世界であった。引き込まれるような感覚に包まれながら歩いていました。
起伏に富み歩く都度景色の変化が起こる。視点の移動は起伏に合わせて変化する。そしていつか道そのものに自分なりの物語がうまれ、歩むたびに揺れ動く景色と刻々変化する心の有り様が怖くもありたまらない魅力空間。景色を見る感情が程なく情景となり、自身の心内にストーリーを組ませる。
人が営みの中で作り育て上げた景色は非常に美しく、植物の見せる生き生きとした表情に多くの美学を授かったと思います。植物も生を謳歌していたと感じます。どうだ、坊主ども、こっちへ来て見てゆかないか。語りかけられる様な感覚も記憶しています。そして怖いほどに青く明るい月夜の道の美しさと恐怖感。風のざわめき。もう二度と戻らぬ景色と時間への郷愁。今も胸を締め付ける切なさの美学であるのか、確かに我々は植物に包まれ見守られながら暮らしていた。
私たち兄弟の様な幼児体験をした人は多摩丘陵に住んでいた団塊世代やポスト団塊世代までで、その後この風景は大規模な宅地造成がなされたため、世界に誇れる起伏に富んだ地形の懐に抱かれた人々が千数百年をかけ作り上げた風景は一瞬にして消え去りました。長い時間の中でしか見る事の出来ない風景はいとも簡単に破壊されたのです。そこに住んだ人々の原風景は、兄と共に懐かしい記憶の中にのみ存在する景色となりました。
横浜の村田ばら園に電話をすると、『村田ばら園です。』と電話口に出ていたのが私の兄、村田美行です。皆様に愛された村田美行は平成 23 年 1 月 30 日に永眠いたしました。奇しくも 63 回目の誕生日でありました。皆様には一方ならぬご愛護とご評価を頂き、村田ばら園一同として厚く御礼申し上げます。
村田ばら園は私共兄弟で多くの夢を語り運営をしてまいりました。特に美行兄は完璧に裏方に徹し、私をはじめ長年苦楽を共にした 2 名のスタッフのバックアップに専念し、私を含めた 3 人をしっかりと支えていた。我々に最高の贈り物をしてくれたのが兄であります。本カタログの編集作業から経営方針に至る全てが兄の尽力なくしては語れぬことであります。何事も最後の判断は兄が下しておりました。
兄弟だから何でも心置きなく話せて良いですね。と言われますが、お互いを最も尊敬し配慮しあったのも私たちです。兄弟は両親からの授かりものであり、血を分けた兄弟は他に変えようがないから、だから最もお互いを気遣いながら兄弟として接してきました。参考にしたのが今は亡き宇部のバラ造りの雄、一雄さんと敏行さんの原田さんご兄弟。旅行の折に、弟の敏行さんが『兄(あに)さん、兄(あに)さん』と何事によらず話しかけていたこと。これを兄弟付き合いの参考にさせていただきました。
本カタログの文章にいささか行き過ぎた記述や愚痴や独り言の様な部分があります。本来であれば美行兄(あに)の編集により、刺ある私の文言をユーモアのオブラート包み、読みやすくバランスよく配慮された文言に置き換えられるのですが、その兄が居ません。読みづらく不愉快な部分もありましょうが、お気を損ねずお付き合いいただきますようお願いいたします。あれ以来独り言が多くなったようです。
村田美行は昭和 23 年 1 月 30 日に生まれ、バラを愛しながら平成 23 年 1 月 30 日に肺炎の為この世を後にしました。
63 年の生涯でした。皆様に愛された美行兄(あに)さんは幸せ者です。長年お付き合いを頂いた事、皆様には感謝の念に堪えません。ありがとうございました。