都市型ガーデニングの夢 Vol.1

都市型ガーデニングの夢 Vol.1

都市型ガーデニングの夢

地球温暖化対策が求められています。都市部で生活する人々にとって、都市の緑化とは義務に等しい状況にあります。建物の外壁や屋根は太陽光により熱せられ、放熱板の様相を呈するからです。建物の内には熱を伝えなければ、それでよいのでしょうか。ヒートアイランド現象の要因となる可能性は否めません。

 

地球環境を考えるうえでは、地表面とは植物に覆われている状態が本来の姿。最も健全な姿であるはずです。都市部住宅地にあっては、もはや明るい陽光に包まれた庭のイメージは考えにくく、緑に覆われた涼しげな空間。植物に護られた空間作りが求められています。植物の葉は太陽熱エネルギーの多くを吸収し、地表に熱を伝えにくい状態を作ります。建物の外壁面に植物を這わせれば、壁面から室内に伝わる熱を著しく減少させる様な効果が得られます。

 

イングリッシュガーデンブームは過去のものとなり、今我々は次の目標に向かって歩みだそうとしています。これから求められる庭造りは、日本の風土習慣に根ざし、日本でしか表現できないような庭。日本の風景に根ざし、日々の生活から生み出される情感に肉付けをしたような庭。緑豊かな環境を求め、歩を進めようとしています。

 

極小面積の庭しかない住宅地に住む我々は、個々の敷地の中で庭を考える事には自ずと限界を感じます。都市型ガーデニングの考え方とは、個々の庭単位で考えるのではなく、横や前につながる事を意識的に行う考え方。周囲と同化しながら、美しい風景の一員たる意識の元に庭を考える手法です。

都市型ガーデニングの夢 Vol.1

道路を中心に考え、街並み全体を視野に修めた庭作りへの新たな取り組みです。考え方は、家の外壁から道路を挟んだ向かいの家の外壁までが庭であると言う前提です。道路は共有のスペースです。そこに市民参加型の街路樹や緑地帯の植物の選択、管理の可能性を探る試みです。個人の住宅と近接した部分を分担し合いながら市民が自ら作り上げる、個性の光る庭と道路を中心にした街並みとが美しく調和した住環境空間作りです。

 

特に注目したいのが街路樹の剪定のあり方と緑地帯の植物の種類や植裁方法についてです。地球温暖化対策が叫ばれる中、樹木の剪定の有り様に付いて、意識の希薄さには驚きを禁じ得ません。日陰を増やすことでヒートアイランド現象の緩和に貢献できるはずです。自分にとって樹木の存在とは、絶対美の対象であります。自然のままの姿に絶対美を感じます。従って私は樹木の剪定ができない。安易な剪定は望まず、目的意識をしっかり持って行う様にしています。邪魔だから枝を切る事は極力避ける方向性で接しております。

 

個と公共の位置づけを家の外壁面、次に歩道との境界と段階的に順応させ、街路樹を庭の樹木として取り込む様な意識、または庭の樹木との調和を維持できる意識を持つ空間作りです。

都市型ガーデニングの夢 Vol.1

個の空間たりうるのは室内空間であり、室内から一歩出れば、そこは準公共の空間であります。都市部住宅街の宿命を一歩進めた考え方です。

 

個人が管理する庭とは、家の外壁面の手入れから歩道の緑地帯と街路樹にまで及びます。緑地帯と街路樹は公共の物ですが、そこに暮らす人たちにとっては日々の暮らしの中の風景であり、美観を左右する物でもあります。緑地帯も同じで、美しい街並みを作る上で非常に重要な役割を果たせる位置にあります。

 

ただ単に花を植えれば済む問題でもなく、風景として優れて美しい事が要求されます。また、その管理を行政から請け負うことで生計を立てている人もおるのです。住民、行政、業者が一体となってより良いあり方、関わり方を模索する必要性を強く感じます。

 

市民文化への意識としての美しい街並みへの取り組みであります。しかし、今我々を取り巻く環境は追い風とは言いにくく、逆風の下にあると考えねばなりません。人の意識は公共の場所、個人の持ち物と区別し、公共に対しての個人の参加に必ずしも理解を示す状況にはありません。悪く考えるなら、一軒一軒が独立国家なのです。

 

また、植物を扱う以上、病害虫防除を前提としなければなりませんが、農薬に対しての意識が壁になります。都市部に於いて増やし守らなければならない植物。我々が植物を健全に生育させ、植物を病害虫から護るために使用する農薬に対して、理解が得られていないのが悲いかな実状です。人の悪口雑言に耐え、ひたすら結果をもって人の意識に訴えなければなりません。これが現実であると思います。

 

緑地帯の管理を行政から付託され、市民ボランティアの形をとり、植裁から管理まで行っている地域も有ります。マスコミで取り上げられる機会や雑誌の取材対象外、無関心さに救われている半面、周囲からはそのひたむきな姿勢が地域の皆様の評価対象となり、人の心が息づく町づくりが行われています。目立たなくていい、普通でいいんだと言う姿勢には真に頭が下がります。これは横浜の村田ばら園付近で見かけた光景です。

 

主義主張を声高に叫ぶより、ひたむきな心の有り様が人々の心に木霊して理解の輪が拡がるように思います。都市型ガーデニングの可能性は無限大です。おそらく 100 年仕事の覚悟が必要です。すそ野の広い大きなマーケットに成長する可能性を秘めた分野です。できることは一杯あるのです。百年の基礎を築くのが今我々に課せられた課題に思えます。

 

※写真は横浜の住宅地の 5 月の風景です。

 

この創造的姿勢が受け入れられがたい事がガーデニングの進歩が遅れた一因であると思います。人の怒りを利用して利益を得る類のビジネスが心に忍び込むと、建設的な発想は陰を潜め、閉ざされます。駄目だ、ダメだ、では次の創造的世界の扉を開けることは無理です。人を育てる事が忍耐と同義語で有る様に、人に寛容の心が宿る事で、次の新たな世界が開ける様に思います。都市型ガーデニングの未来とは、携わる人の対価を求めぬひたむきさ、地域に住む人の心に宿る許すことの大切さ、見守る事の大切さ、慈しみ育む寛容の心なしには成立しないのです。

 

えぇかっこしぃじゃないかと言われるでしょうが、ガーデニング 10 年で我々が得た物が余りに少なく、何か残ったのでしょうか。ガーデニングの発展は人の心の壁に阻まれたのです。心の壁とは、緑が共有の財産であることへの無理解、個人の枠に固執し共有する事への理念が余りにも希薄であったのではないかと感じています。それに工夫する事への無関心さもあります。ガーデニング 10 年、今我々はようやく日本に於ける建設的で美しい住環境を整える為に行う、百年先へのグランドデザインを描く、その出発点にたどり着いた様に思えます。

壁際族と言われても

植物に携わる人間として、住宅の壁面を植物で美しく装飾する事には限りない願望があります。ツルバラを壁面に仕立てる事は必然的な事でした。敷地が狭く日当たりの悪い状況下で残された可能性が壁面だったのです。

 

自分の住む家を美しく気持ちの良い外観にしたいと願う人は多いと思います。家並みも街の風景に少なからず影響を与えます。家の外壁面は、そのまま街の風景となっています。そのため、先ず始める事、それは道路に出て我が家を眺めること。これが事の始まりの様に思います。

 

昔話です。道路で家を眺め思案していると、お隣さんやお向かいの方が集まり、あれやこれやと会話が弾み、お買い物帰りの方もお話の輪に加わり、これが楽しく、庭作りの基点は必然的に道路や歩道へとなっていったのです。我々の暮らす住宅地は、小さく区切られた敷地の真ん中に家を建て、窓を通して見える風景は隣家の壁面です。人生の時間を過ごす場所が住宅地。お互いがお互いのために無機質な壁面に植物を這わせ、壁面に有機的な表情を付加させたら、美しい外観を持つ家になるよう努めたら。どんなにか有意義な人生の時間を過ごせる住宅地になる。その一助にはならぬかと思ったのです。

 

庭木や街路樹などの樹木が、地域に住む人共有の財産であるように、美しい外観を持つ家並みも財産であると思います。日本の家屋の多くはデザイン的配慮がなされず、機能優先で設計されてきました。近年ようやく黄金比などの手法に基づくバランスの良い夢溢れる家の外観を持つ家が設計されるようになりました。

都市型ガーデニングの夢 Vol.1

旧来の家屋でも家の外観をつぶさに観察することで、強調させるべき部分と補うべき部分が判ってくると思います。何かで補う必要性、隠した方が賢明と感じる場所には植物を用いる事で、バランスの取れた家の外観を作り出すことは可能であります。植物は常緑樹でも落葉樹でも、蔓性の植物でも良いのです。デザイン上の欠点は他のもので補えば済むことです。植物の場合、過剰装飾との指摘は受けないでしょう。

 

屋根にかかる枝は、落葉が雨トイやトヨに詰まり、厄介な状況を招きます。この様な場合は、金網のネットをトヨにかぶせて、落ち葉を滑り落ち易くしておきます。こうすれば、樹木の枝を切らずに、両者の親密な関係を築く事ができます。家に密着する樹木や植物の姿は、この家に住む人の環境への配慮や、その家に住む人の感情表現につながります。家を風景にとけ込ませて行こうとする心の表現につながります。

 

住宅と植物の織りなす美しい風景に慈愛に満ちた人の心が加わることで、住宅地は心地よく住み易い環境になります。この様な環境を整え作り出す事が造園家の天職たる本分、職務であるのです。住み易い住宅地の整備を行う事。これが造園家本来の仕事です。彼が、彼女が、あの人達がこの街にいるから、この街は美しく住み易い。造園家とは住人に奉仕する芸術家であるべきと、これは願望でしょうか。常に住民の側にたち、住民の良きパートナーであるべきと思います。

 

そのためには、造園家は自己の原理に対して、かたくなであってはならない。庭や住宅地は造園家個人の物では無く、個人の意志が強く反映されすぎると、地域に住む人の反発を招きます。この姿勢では何事も成立しない様に思えるのです。現状を理解し、ある物を活かし、破壊を最小限に留め、植物をいたわり、人の心をおもんばかる。全てを受け入れてから、全体の調和を図り、そして、あくまでも貧欲に美を追究する姿勢が必要であると感じます。造園家でなければできない仕事です。

壁面があればつるバラを咲かせられる

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